2007年11月23日金曜日

コミュニケーション能力

「コミュニケーションが大切」と良く言われる。

会社の中でも繰り返し言われているとこをみると、大切なはずのコミュニケーションが上手くとられていないんだろう。

コミュニケーション=伝達(会社では報告・連絡・相談でホウレンソウとかいう)には、方法や技術の前に、まずは伝えよう!という意思や熱意?が必要だと思う。

これは伝えようとする主体の問題だけではない。

何を言っても聞いてくれない、動いてくれない、では、伝えようという意思も熱意も減退するのは道理だ。

それから、必要性の判断。仕事に置き換えると、例えばこの仕事は自分だけでやるから部下や上司に伝える必要はない、とあえて伝達を行わない場合。

だけど、仕事が一人で完結するなんてほとんどなくて、上司の判子が必要になってもらいにいったら、ぜんぜん違う内容で既に契約が締結されてた、なんて話もゼロじゃない。

上のような話だけでも、お題目のように「コミュニケーション」と唱えている場合じゃない。

コミュニケーションの不足を憂う根っこは、実はかなり深い。

その会社、人間関係のあり方そのものへの警鐘であるように思う。

2007年11月15日木曜日

文体について

文章を書いていて思うのだけど、意識してなくても、なんとなく今読んでいる
作家の文体に似てくる気がする。

あ、あくまで言い回しの問題だけであって内容の方ではない。

内容というか、文章力が似てくれれば良いのだけれど。

で、改めて自分の書いた文章を眺めてみると、その時何を思ったか以外に、
誰の何の本を読んでいたかが分かって一人面白い。

更に、で、文章ごとに文体が変わってしまっていて読みにくい。

読みにくい?困ったものである。読みにくい要因は他にもあって、それは
純粋に文章力(注意力?)の欠如によるもののような気がする。

ですます調が言い切り口調に変わっていたり、それが一続きの文章の中で
そうなっていたりで、もう収拾が付かない。

頭に浮かんでくるいろんなことが消えないうちに書いてるから、なんて言い訳
したいけど。

そんなもんなんでしょうか。

違うよね、きっと。

2007年11月8日木曜日

鬱病と風邪の類似点?

今日、会社でマインドヘルス講習なるものがあった。

主なテーマは鬱病。

ご存知?の通り、この国では毎年3万人が自ら命を落としている。

交通事故での死者が1万人で、これを交通戦争と呼ぶのだから、この数字は
恐るべきものだ。

また、以前は若年層の衝動的な自殺が多かったのに対し、近年中高年の自殺者
が急増しているというデータがある。

こうした憂うべき事態への対策のひとつとして、今回の講習が開催された。

バブル崩壊後、サラリ-マンの心労は増す一方。
SCR(企業の社会的責任)を唱える会社としても、従業員へのケアは必須
なのである。

その中で「鬱病とは風邪みたいなもので誰でも罹る可能性がある。」
という話があった。

特別なものではない、という意味の比喩として使われたのだが、もうひとつ、
「予防が大事」という意味に解釈したい。

数年前、かく言う僕も、今にして思えば鬱病だったんだな、と思う。

始発で出社して、終電には乗れず自腹でタクシー帰宅する毎日。

やってもやっても出口が見えず、そんな状態が1年程続いていた。

何故、僕は正々堂々と、こんなことやってられない、って言えなかったんだろう。

プライド?人間関係?強がり?そのどれの為であっても、いろんなものを犠牲
にして、命削って。

いったい何をしていたんだろう。

初めて受けた人間ドックで、胃に穴があいてそれが自然治癒した跡があるって
聞いて笑ってしまったもの。

命あってのものだねです。

今なら、絶対ぶっちゃけます。

そんなものに殺されたくはありません。

2007年11月7日水曜日

幸せってなんだっけ

幸せっていうのは、解釈するものではなく感じるものだと。

「僕は幸せだ、と思うときも その意味を考えて 考えすぎて 

そして

不幸になることが多かった。

そんなときもあなたは  僕の傍らにいて 微笑んでいて 

ただ微笑んでいて  そして僕はすこし幸せになったんだ。」

昔どこかで読んだ詩です。そして幸せを感じる訓練をしました。

「僕」でなく「あなた」になるために。人をいっぱい幸せにした人が、

最後にきっと幸せになれる。

そう信じること、感じることが今の幸せなのかもしれません。

2007年11月5日月曜日

手段としての言葉

気持ちは言葉にしづらいと言います。

その理由のひとつは、気持ち=感情はイメージに支配されて いる
からじゃないかな、と思ってます。

イメージと言葉は、そもそも相性が悪い。例えば、イメージの世界で
は僕は何者にでもなれます。ある場所にいながら他の場所にいる事
もできます。時間や空間を超えてさえも存在します。

限りなく自由な「イメージ」を、窮屈な言葉で表現することには限界が
ある。そう思うのです。

だから、音楽でしか、絵画でしか、写真でしか、とにかく言葉以外の
手段でしか伝わらないことは厳然と存在すると思います。

だけど一方で、窮屈でも言葉で表現する以外にないケースもある、
というか、頻度的にはこちらがほとんどですが、そういうケースがあり
ます。

僕の感動とあなたの感動が全く同じものでなくても、感動した、と伝え
合うこと自体が大切な瞬間。ただ、涙を流すだけで分かり合える場合
もあるけど、それよりも、あ、でも、お、でも良いから、何かを共有した
と確認できる、手段としての言葉が欲しい瞬間。

たとえそれが、勘違いでも。