2008年1月27日日曜日

結婚をするということについて2

結婚についての名言(迷言?)は多くあります。
名言が多い、ということはそれほど悩みも深い、というところでしょうか。

かのトルストイ曰く (そう、誰の言葉か=トルストイでした。)
「君が良い妻を持てば幸せになるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる。」
トルストイの奥さんは悪妻で有名ですが、それで哲学者になれた?のでしょうか。

「結婚の利益は、女性の本質を知ることであり、結婚の損失は、女性への幻滅を
知ることである。」
といったのは萩原朔太郎。

「妻は若い男にとっては女主人であり、中年の男にとっては友であり、老年の男
にとっては看護婦である。」
とはフランシス・ベーコンの弁。さすが含蓄を感じますね。

私にとっては・・・やはり
「結婚はエゴに対する理性的挑戦である。」でしょうか。

2008年1月13日日曜日

結婚するということについて

誰の言葉だったっけか、と思い出せずにいます。

結婚するということについて、名言だなぁ、と思った言葉。

正確ではないんですが、確かこんな感じの言葉でした。

「あなたが結婚した相手が良い妻であったなら、あなたは幸せ者になれる。

あなたが結婚した相手が愚妻であったならば、あなたは哲学者になれる。」

最近、気に入らないから、趣味が合わないから、性格の不一致で、などなども理由で離婚するカップルがさらに増加しているとか。

マスコミも煽って、シングルマザーだの、自立する女達だの、熟年離婚だのと節操のない見出しで紙面を埋めてきた結果、僕達はいったいどこに行くのでしょうか。

別にえらそうに言うつもりはないけど、所詮他人同士が始める結婚生活だから、結婚して半年もたてば、甘い恋愛時代には気づかなかった相手のいやなところなんかが見えるのは当然です。

マスコミがあえてそれを面白おかしく扱うのは、それが新しい情報だからでなく、またそれが正しい情報だからでもなく、単にそれが売れる情報だからです。

ハリネズミ症候群。現代人はハリネズミのようで、寄り添わなくては寒いけれど、ぴったり寄り添うとハリがちくちく刺さるので、ちょうど良い距離を保ちながら生きるのだとか。

だけどね、そんなもの人間が二人存在した時点で起こる当たり前の状態です。

なぜなら、アイデンティティが人間を個人たらしめるのなら、個人であればオリジナルであり、自分以外はみな他人だからです。

過去と現代の大きな違いは情報量の多少だけではないかと思います。

昔は、一山越えた隣村は別世界であって、そこで何が行われて誰がいたのか知らずに死んでいく人も多かったのではないでしょうか。

つまり、選択肢は同じ村の中にしか存在しない。だけど、そんなもんだ、と思っていたんじゃないかな。だって、比較するものがないんだから。

そして、仕方なく?ゆっくりと時間をかけて「夫婦」になっていったんじゃないかな、と思ったりします。

情報の洪水に飲み込まれそうな現代人は、その情報をもって村の住人を越えたのでしょうか。

いやいや、何にも変わっていません。

村の住人より、出会える人の数は増えたのでしょうが、それでも無限ではありません。

なぜなら、人の命が無限に続くものではないからです。

人間は、所詮尾骶骨を引きずりながら、長くて100年という限られた時間しか生きる時間を与えられていない動物です。

なのに情報は、まるでそんなことを忘れさすかのようにあなたを煽ります。

そこでのんびりしてちゃだめ!勇気を持って、今を変えて!と叫びます。

時間だけが作り出せるものがあるというのに。

情報は、人間という動物から「忍耐」という美徳を奪い去ろうとしています。

しかし、人間は忍耐以外に、他の動物にはない特技をいっぱい持っています。

その中でも、特筆すべき特技が、ユーモアです。

人生にユーモアを。

それが自分の人生を、上手に、そしてゆっくりと楽しむコツです。

さて、僕は幸せ者になりそうか、哲学者になりそうか。

この、世界に二人といない妻との生活の果てに。

2008年1月5日土曜日

矛盾?

大切な人と別れました。

二人はもう特別な関係ではありません。

だけど、他の人に比べたら、以前として大切な人には違いありません。

だけどだけど、特別でも、大切でもない人と過ごす時間はあっても、その大切な人と過ごす時間は持てなくなる。

そんな経験はありませんか。

恋人同士になるということ。

その向こうにある辛い可能性を思うから、だからこのままで、特別ではなくていたいと願うこと。

大人になるということなのでしょうか。

何かを失って初めて何かを手にする。

大切を失って理屈を手にする。

なんだかなぁ。

2007年12月25日火曜日

バランス~クリスマスに思い出した別れ話

昔、ある女性に恋をしました。

5年付き合った彼女がいたにも関わらず。

気持ちに嘘はつけないよな、それにこうなったら早くに話したほうがいいよな、と、彼女に別れ話を切り出しました。

彼女はただ黙って僕の話を聞いていました。

「それって、もう、決めちゃったことなのよね。」

彼女は言いました。「なら、そうしたらいいんじゃない。」

彼女は大人だ。

あっさりしたもんだ。

「傷つけないかと心配だったんだ。」と、初めて彼女の顔を見ました。

彼女は泣いていました。

「別れ話を切り出されて、泣くような女じゃない。」

彼女の口癖でした。

彼女は僕と出会う前の恋愛で深く傷ついて、それ以来、泣く程人を信じたくないと決心していました。

僕はそれを知っていました。

知っていたのに、いや知っていたからこそ、別れ話を雨の振る夕方に切り出せたのかも知れません。

彼女はゆっくりと時間をかけて、僕を信じていました。

振り子の振幅がやがて静かに止まるような、そんなバランスの取り方で。

だけど彼女は、同時にもうひとつ別のバランスを意識していました。

「私はあなたを好きだけど、何よりも、とは言えないじゃない。そのことがあなたを苦しめたことも知っているし。そのくせ、あなたにとっての何よりもになりたい、とは思っていたの。だけどそんなのムシが良すぎるかなって。」

彼女はずっと泣いていました。

違う。彼女の涙を見ながら僕は思っていました。

彼女はただ僕を責めたらいいだけなんだ。

それで、僕は僕の我儘さと、欺瞞とを思い知ればいいんだ、と。

「あれ、私泣いてるね。嘘つきだね。ごめんね。」

最後にそう言って、彼女は席を立ちました。

天秤の片方に重いものを乗せ、もう片方にそれよりも軽いものを乗せる。

バランスを取るためには軽い方におもりを足すか、重い方からおもりを引くかしなくてはいけません。

彼女が意識していたもうひとつのバランスとはこの引き算だったんだと思います。

自分を責めることで彼女は二人の関係のバランスを保とうとしたんだと。

僕が始めてしまった引き算は、二人の関係を軽くして、そして、僕を責め続けました。

その時僕の内側ではどんなバランスが取られたのか。

結局、その後僕は一人で幾度かの冬を迎えました。

2007年12月23日日曜日

純愛についての僕の定義

世に純愛という言葉があります。

辞書で引くと「邪心のない、ひたむきな愛」。

分かったような分からないような説明です。

愛はどこまでも個人的なものなので定義というのも無粋かもしれませんが、誰かの為に、自然に、我知らず自分を犠牲にしちゃっているような、そんな人との関わり方、というのが近いかなと思ったりします。

基本人はいつも自分が一番可愛いけど、いつの間にやらその自分を犠牲にしている瞬間があって、わりと自然にそうしてしまって。

プラトニックかどうかではなく、エゴを超越したかどうか。

如何でしょうか。

2007年12月22日土曜日

優先順位

「仕事の成否は、八割方(九割?)段取りで決まる。」というのは良く聞く言葉です。

仕事に限らず、何かの企画(イベント、会合、デート、結婚!?)についても、段取りが命!です。

意味は分かるけど・・・、ってな感じですが、具体的にというとどういうことでしょう。

段取り良くやる為のスタートは「優先順位付け」です。

目的は何か、を出来るだけ単純化して考え、その為に必要な作業をピックアップした上で、その作業に優先順位を付けていきます。

この際、「何をやるか」と同じくらい大切なのが「何をやらないか」だったりします。

個人の思考と言うのはどうしてもなんらかの癖というか方向性があって、かなり注意しないと、目的達成の為には殆ど不要なことに知らずに労力を割いている場合が多いものです。

それを避けるには、「何をやらないか」を意識することはとても有益です。

同じような話ですが、段取り良く済ます為の最大のコツは、余計なことを徹底的に排除するということです。

やっている最中に気になることがあっても、決してそちらに気をとられないこと。

優先順位の高い作業と位置付けたことが終了するまではある意味機械的にその作業を完成させること。

それ以外のことは、それから、行うこと。

これだけで、ずいぶんと段取り上手になるはずです。

2007年12月19日水曜日

正直と誠実について

ある事実を出来るだけ客観的に相手に伝えることを「正直」とするなら、「正直」は時に「嘘」よりも人を傷つけることがあります。

と言うより、「客観的でいられる事実」が人を傷つける、と言うほうがより近いかもしれません。

一方、「客観的な誠実さ」というものは存在しません。

誠実は主観的な活動でしかあり得ないからです。

誰かのそばで僕は誠実でありたいと願います。

傷つけられる程近くにいた人を、「正直」という真実の顔をしたナイフで切り裂くことを、ただそれを

僕は恐れます。